「サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-」感想
そこまですばらしいとは感じていなかった。
と、は前作と比べた感想だったけど単体エロゲとしては相変わらず非常にすごい出来だった。
本作全体から見て一番印象に残るのは最後の絵画バトルでもなく寧が空の絵を描き上げたところでもない、静流が雪景鵲図花瓶を作るエピソードだった。なぜかというと……いやマジで思うことはないんだよ…ちょくちょく出てくる雑学などそりゃあ面白いなと一瞬だけ浅く思索させたことはたくさんあったんだけどこころまで震わせることはなかった。それに対して静流のエピソード、特にニューヨークで健一郎に花瓶を見せるシーンがめちゃくちゃ好きだった。その他衝撃なシーンもないし書くのめんどいのでプレイ中に書いたメモの一部をそのまま下に貼っとく。
ライバルがいなくなったら、自分も目標を失う。
頂きの景色を一人で見るのは寂しいものだ。自分の前に他の誰かが走っているから自分も走りたくなる。
ライバルというのは不思議な関係だ。相手を超えたいのに相手に強くなってほしい。人間の感情は複雑で興味深い。
それを言ったら戦争もそうかもしれない。もしかしたら嫉妬こそ人のモチベーションの原点かも。ネガティブな感情も大事ってことだ。
芸術は観客に見られてその象徴を読み取られる。十人十色でその象徴がある。
子供を大人の事情に巻き込まれないのがモットーだったのに、それでも無意識に子供に親の性格の先入観を取り入れてしまう。
美術界の亡霊。才気のあふれる若い子はみんな草薙直哉という亡霊に囚われつづ美の世界に飛び込んでいる。
誰かの影響で何かに投入的になるのは美術界だけではなく全てのことに関してもそうでしょう。俺が小さい頃にゲームやチートツールの影響で色々楽しい思い出が出来たから現在完全ではないけれどそれに少し関わる道を歩いているように、多分人はみな「それは楽しいからその楽しさを自分で作りたい」という願望でやっている。
心鈴と寧が面会した時寧の豹変に驚かされた。ただ、親が何をやったとしてもその罪は子が償うものであるべきではない。寧が好きだけど、この点に関して俺は心鈴の味方だ。出来れば寧の間違った価値観も正してあげたい。
それでも実際に苦しまされた本人にそれを要求するのは難しいでしょうが、第三者の俺は見過ごすのは間違っているだと思う。正しさは時に人を傷つくものだけれど、大人なら見過ごしたのかもしれないが、小さい子のそういう価値観を歪めたまま見過ごしたくない。多分こういう考え方を持つのは俺がもう若くない証だろうな…
寧はいい友人に恵まれている。
逆にそれが良かったかもしれない。小さい頃から自分が無敵だと思い込んでしまうと大きくなったらその思い(習慣)が変えにくくなる。早めに現実を知ることが痛いだが long shot から見るとポジティブなことであることもある。自分が才能があるとずっと思い続け生きてきてから突然自分より遥かに凄い人を目にすると、逃げ出したくなる。だが寧は逃げなかった、逃げるどころか、それを挑戦するとすら思っている。彼女は強い。
讃美だけでは芸術にならない。人の心を打つ芸術に必要なのは真実。世界の真実。作品に真実を宿らせる。それは勇気が必要。
寧が心鈴に勝てないを知って、勝てなかったら心が折れるかもしれないことを知った上で予め釘(約束)をつけたことによって寧を逃げることから防ぐ。一度逃げることを選択した俺から見れば非常にリスクが高い行為だ。それでも教育者として子供に正しいことを教えたい、成長してほしい、逃げない勇気を教えてほしい。リスクが高いだがその代わりに成功した時のリターンも高い、この件によって寧が逃げない勇気を知る。それは絵画の業界に関わらず仮に今後彼女が画家以外の道を歩むとしても有用なものになる。「勇気」というのは言葉にしては簡単だが難しいこと。
寧の考え方を是正したこと本当によかったと思う。なんか父親のような気持ちで寧を見守ってるような気持ちになっちまってるな…
人が自分にないもの、あこがれるものを持っているから、それを認めたくなかったから、その感情を無意識に歪め、その人が悪、自分が正しい、自分が高尚的、という自己防衛的な心理になってしまう。
多分、この言葉を理解してから始めて芸術家と名乗れる。
ふと思う。何故「才能」を論じる作品がこれほどに多くのが芸術に関するものなのか、多分芸術における才能は一番差が付きやすい、明確的なボーダーがない、あやふやなもの、それと努力の姿が描写しやすい。他のもの例えば数学、ボーダーが明確(定理が見つかるかどうか)、努力の姿が映えない(デスクで字を書く?)。だから芸術という題材にする。
逆にルリヲは負けても思い詰めることはないし軽く悔しいという気持ちをモチベーションに変えられるからその点においてはすごくいい素質だと思う。
「私の存在が閉じている」とは私は一つの個体であり、一人で生きて一人で死んでいく。
「私の存在は世界にたいして開かれている」とは私は世界に影響され私という存在(個性?)が形作られる。
量子力学の視点から言うと entangled 状態の二つの粒子の形式に似てる。
美は世界に属さない。芸術家は作品という形で美を世界の枠に書き留める、作品は美そのものではないけれど、美という概念の輪郭を与える。
Entropy がまだ最大値に足してない時点の世界は一番美しい。変化がなければ全てが均一されていてそこには物質も時間も意味を持たない。世界が物理的に存在していてもその意味は存在しない。
「現象としてみられる美とはあくまでも、世界で明滅する光に過ぎない。
だからこそ、人がそれを受け取った時に、比類無い瞬間を手に入れる。
消え去る光の中にこそ、我々は永遠を手にするのです」
美を手に入れる = 生じる = 現象(世界に属する)= 瞬間を手に入れる
消え去る = 滅する = 現象でなくなる(世界に属さない)= 永遠を手に入れる
「生じず、滅せず、現れず、去らず。
故に、生じて、滅して、現れ、消えていく。
だからこそ、それは永遠であり、瞬間でありえる。
瞬間としての美を永遠の相として見るとは、その様なものではないでしょうか?」
結果から見ると何も残らない(初期状態と同じ)。瞬間の美を永遠の相として見るとは虚無である。故に「生じず、滅せず、現れず、去らず」と同じ意味を持つ。←唯物論からの視点かも。
長山は持たない人の地獄を見たから救済されて嬉しい。多くの場合我々も持たない人間だから長山のほうが性質として近いかもしれない。
価値は物質の世界の中に存在しておらず(両方も極点同様)、心の世界の中に存在する(自分がその価値を納得のほう)。
ここで藍という人の役割を感づく。あらゆる神域の芸術家をそばから見てきた。渦自身ではないけれど渦の中心にある穏やかな台風の目のような人。
時の流れの中で芸術家の一人一人をその目で見送ってきて、自身はかの日のまま、まるで自身以外の全てが変わっていくのような日々の中で、藍は何を思ってるんだろう。
芸術家という人種に呆れるつづ、それを尊重する姿勢が藍の一番の素質かもしれない。
弓張釉薬と恋。
この二つが鳥谷が達しなかった青春の幾望。
確かにある意味「酒」に対する容量は最もシンプルで人と人の才能の差の表わしかもしれない。安い才能だなw
弓張時代の美術部、とてつもない才能を持ってる人がたくさんいたのに、誰一人絵画の専門家の道を歩かなかった。部長の鳥谷は悔しいと思っているけど自分では何もできなかった。才能を持つやつらをすごい走り出させたいけどそれは自分が関与していいものではないと責任感が強い自分の中で落としどころをちゃんと付いてる。そんな自分にもどかしいと思ってる同時に異常な才能を持つ人を間近で見て諦めを付いてる。その結果は圭が死んで、草薙はプロを諦めて、里奈は美大を諦めて、みんないるはずの場所にいなくなったと、何も手に入れられなかった青春だと思ってる。
神経細胞の発火:物理の視点
芸術の真実:精神的な視点
遅い歩み。遅くても、良いんだ。
他の天才より現実味と醜い人間性を帯びた寧のほうが俺に響く。
最後に、
寧を押させろちくしょうふたぢ!!!!!!!!!!!!