「サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-」感想

「サクラノ刻」の発売に備えて4年半前に初プレイした「詩」を一通り全ルートを復習することにした。

初回プレイの時印象に残ったのは前2章の日常会話は冗長かつ語彙も難しくてテンポも悪くて読むのが大変で一度ギブアップしかけたんだけど、桜の足跡の作成から物語が一気に加速して面白くなってきて特にオランピアの話にすっごく感動したこと、それとTRUEルートの最後に稟と桜の木の下での会話の部分が何言ってるのかまったく分からなかったこと。ただ全体的に楽しませてくれたのでその頃はとりあえず深く考えずに何となくいい作品だったと記憶に留めておいた。

4年半の時が経って、歳も個人的な経歴でも読解力でもその頃よりはそれなりに上がっていたんだし、丁度続編の「刻」ももうすぐ発売されるんだし、これを機に「詩」を一度復習するかーとの思い込みでもう一度プレイした。感想はたくさんあるんだけど時列順で書くのめんどいのでとりあえずバラバラにスクショに合わせてその断片の感想を述べる。

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作中は何度か「因果交流の電灯」という言葉を言及した。それは単なる「春と修羅」の引用ではなく草薙直哉の「弱い神様」のモットーでもある。吹の言う通り直哉は他の人との関わりによってこそ創作を続ける、正に因果交流の芸術家。その弱い神様は稟のように絶対的な美を追求する唯美主義の強い神様には及ばないし、人によってはその神様の姿が変わることもあるし、不確定で極まりないものだ。それでも普通の人にとって手に届かない場所にいる絶対的な神様よりもそばにいてくれる神様のほうがよっぽど親しみやすい、直哉と健一郎さんはそうやって弱い神様を駆使してたくさんの人を救ってきた、それは彼のもう一つの言葉

「もし、君が、作品を目の前にして“重厚”だと思ったり、“高尚”そうだと思ったら、その芸術は死んでいる。もし君がその作品を目の前にして、作品から息吹を感じたとしたら、その作品を生き返らせたのは、他ならぬ君だ。」

の中でも垣間見える。今までの芸術傑作をまるごと否定したような生意気な理論だが、芸術が死んでいた現代において「芸術」とはなんなのか、この言葉はそれに対する思考でもあるだろう。まあ正直ゴッホの向日葵なんかよりえっちな女の子の絵一枚のほうが俺の心にグッとくるんだろうしな。

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人は何を信じる、について考えて見れば確かにこの通りなのかもしれない。人は自分の都合で信じたいことしか信じないし、大事なことであるほど信じ込んでしまう。これは信仰だけに限らず、趣味や振る舞い方にも影響を与えている、そしてそれは人の個性を構成する大事な一つの要素でもあるだろう。

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鳥谷ルート、中村家とのトラブルに纏って恩田寧の母親がいかにも救いのない、他人を依存することしかできないような人種だけど、校長に渡されたはしごとを借りたとは言え寧に対する愛と申し訳なさが最後やっと自分の弱さを上回って言うべき言葉を吐き出せた。そういう人種を見るたびに普通なら毎回自業自得と思っているんだけど、まあ身近な人だったらそうにも行かないよね。

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鳥谷ルートの最後、鳥谷は自分がツバメに成れないと知っているから、せめて二人の大好きな天才のために、その才能を朽ち果たせないために月を作ろうとしたが届かなかった、その代わりに愛を手に入れたから、満足はしていると思う。

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氷川ルート。自分が無視を決め込んだことであっても世間がそれを無視できるほど寛容ではない。それは同性愛だけではなく、法律や習わし、伝統などにも反映される。実効を持たないただの言葉(正確には言葉にもある程度実効はあるがそれはあくまでも精神的なパースペクティブ)ならまだしも、行動に移されたらそれはもう無視できない。

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川内野が氷川を羨ましいと思うように、氷川も川内野が羨ましいと思っている。最近の「転天」もそうなんだが、もしかして「お互いがお互いの自分の持たない性質(或いは憧れる性質)が羨ましい」というのは百合の定番なのか?だとしたら俺は今まで相当に百合に疎いな……まあでも人というのはそんなもんでしょうね、他人が自分の持ってない特質を見る度にそいつすげえなぁとか羨ましいなぁとか思ってしまうものだ。ぶっちゃけ自分も最近割とそういうのを結構な頻度で感じる、それで他人が羨ましいと思うことも結構ある。こういう時は自分に自分も他人が持ってない性質があると言い聞かせる、自慢のためではなく、元々人はそういうもんだと改めて自分に強調するのだ。

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氷川ルート、川内野の負けが決定の時。中原中也の「春日狂想」の

「奉仕の気持に、なることなんです。」

愛するものが死んだ時、何か心を穏やかにできる事をして心の穴を埋まなければ落ち着けない、或いは何かを供養にして心を穏やかにしたい。そういう考え方は中国の“伯牙绝弦”と似ているかもしれない。要するに大切な人が亡くなった時みんな一生懸命に悲しい気持ちから逃げているのだ。

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「私の限界は世界の限界、世界の限界は私の限界」という言葉は「終ノ空」の中でも現れたことがある。違うところは「終ノ空」ではこの言葉に対したなんの解釈もしてくれなかったので理解が至らなかったと、本作の中で割と分かりやすい解説をしてくれたので何となく理解したような気がする。世界は個人に関わらずそこにある、というのは唯物主義の視点で世界の真理でもあろう、但し唯心主義の視点から見れば世界は心が感じるからそこにあるもの、二つの理論を交えてみればそれは世界があるからこそ心があり、心が感じるからこそ世界があるという無限ループになる。この言葉もそれに似ている。私が感じたものすべてだけが世界そのものであり、私の限界は当然世界の限界と同調する。
ただ気になるのは、この理論には一つ致命的な欠陥が存在すると思う。上記の理論はすべて一人の世界においての理論、その世界の中にもう一人を入れてみればその理論は崩れ去る。例えば、他人が自分の見たことのないものを自分に伝える、自身はそのことを感じたことがないからそれが自分の世界にカウントされない、但し他人に発見されることによりそのものが世界に存在し始める、この時から私の限界と世界の限界が亀裂を生じる。そのようなものがどんどん増えていて、最終的に私の限界と世界の限界がまったく違うものになってしまう。なので、その理論が成り立つ前提は世界に私一人しかいないとの事。人間には社会というものがあるからね。こうして考えてみれば人間社会っていうのは不思議なものだ、一人において世界一つがあると思えばそこには何百万何千万の世界が交えている、その個々の世界が一つ大きな世界を形成して個人の世界がちっぽけな存在になってしまう、尚且つ均衡を保っているなんて奇跡のようなことだ。

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更にそこから発散して、水菜の好きな言葉遊び「What is mind」「What is matter」もこの通りに解釈はできる。心と体は見方の差でしかない、体は心が感じるからこそそこに存在して、心は体があるからこそ成り立つ。更に具体的に言えば水菜の体は汚されていたが、心がそれは汚されていないと認識すれば、それは綺麗なものになる。但しそう思えるかどうかはその人自身による。まあ実際体は汚れているのに心がそう思わないのはとても難しいことだしね、そこをクリアさえ出来ればみんな超人……というか世界が崩壊しかねないな……要するに心はその力があるってこと。

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数学が自然と心から抜き出された特例に関して正直難解でまだ自分も整理しきれていない、これは一旦スクショだけ置いて後回しにしておこう。

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現代アートに対する消極的な態度について、「アメイジング・グレイス」の中にでも言及したことがある。芸術が死に絶えた現代でどうやって芸術を表現できるか、20世紀初期頃にとある芸術家が黄金の便器を展示会にて出展したことによりその流れが斜め上の方向に発展したらしい。とりあえず奇抜なものを、誰もやらないようなことをすればそれは芸術という思想が広がってしまって現在に至る。まあ正直現代アートに関して、自分もこの前文化の日に上野の美術館に行って色々見て回ったんだけど、全然理解できなかったね、何故そんなどうしょうもない美しくないものを芸術と呼ぶのか、多分専門家から見てちゃんと意味があるだろうけど一介のオーディナリーパーソンの自分にはわからない。そもそもそんなわけのわからない絵画よりもツイッターで神絵師さんが描いた一枚の可愛い女の子のイラストのほうが俺から見ればよっぽど意味があるし価値がある。ただし現代において権威のあるアートと普通の大衆芸術の堺はどこにあるのかについて考えてみれば、多分これなんだろう。要するに一目見れば誰でも分かるような物が大衆芸術で、そうでない物がアート。まあ芸術がありふれた物になり果てた現代にてその二つに堺を立つならこれしかないだろうね、それで一般人が理解できないから金にならないような状況にハマって、芸術家っていう生き物は難しい物だ。

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俺が本作で好きなキャラクターと言えば一番は言うまでもなく健一郎さんだろう。ぶっちゃけ第四章最高に好き。水菜を救うための無茶な行動、発想も行動力もなによりそのバカさが最高に刺さる。

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次に好きなのは明石先輩、滅茶苦茶な人だけどちゃんと目標をしっかり持っていてそれを実現する知恵も行動力もある、ただし後輩には韜晦する、背中で語る男みたいな、完全に俺の理想の先輩像と一致する。こうして考えてみれば俺はそのキャラがバカであるほど好きかもしれないな(?)。


圭が死んで稟が弔うのように、ツバメの役目を受け取るような形で彼の道を歩み始てめたけど、そこにはまだいくつかの謎が残されている、この中で一番気になるのは

  1. 雫は何故、どうやって、稟に吹を返したのか
  2. 恩田寧も何か特殊な性質を持っているのかどうか

多分「刻」で明らかにされるだろう。


復習し終わって、昔には気付かなかったことをたくさん気づいてから思うことは、やっぱりいい作品は何度も反芻するべきだなとのこと。自分の経歴、作品を読む時期、などが違えば作品を読む時に得る感想も違いがたくさん出る、自分が成長していることも実感することができる。まあただし常々やりたいと思わないよね、そんな時間ないしなにより何かのきっかけがなければ復習するなんてめんどくさくてやりたくないものだ。


これでやっと心置きなくサクラノ刻を待つことができた……なんでもいいからとりあえず恩田寧のえっちなシーンが見たい(願望)。それと駿河屋の特典タペストリーが欲しいんだけどすでにげっちゅ屋で予約したんだよな…。特典商法が憎らしいのはさておき二本買うのは勿体ない気がするけどどうしようかね…

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